敬天舎同人誌 舎報第一号(昭和56年)より転載

舎報創刊の辞
北原勝雄(69)

 磯の繚に囲まれたあばらや、古井戸、水神さあ、天井のないがらんとした舎屋、そこに天臣、宗渕堂、保城山之翠(古島一雄先生書)、岳東先生の額、北満の白系露人の部落からきたトナカイの角にかかっている紅槍匪の槍、また床次竹二郎先生の愛読書、ウエブスターのエンサイクロペディア等が雑然と置かれている。

 その正面に見開きの扉があり一本の榊の木が植っている。
「ひもろぎ」である。

 
それは今でも鮮烈に蘇ってくる往時の敬天舎のたたずまいであるが、私はこの「ひもろぎ」こそ勇輔先生の生涯の傑作であると信じている。しかもそれは、石井一作翁と逢われる前、また川面凡児先生直伝の禊行に参加される以前に植えられていたものである。

 「ひもろぎ」とは魂のこもる木という意味である。これこそ勇輔先生の魂の修錬の見事な結晶であり敬天舎の中心的生命である。これをみて驚きの声を発し先生の透徹した日本魂を読みとられた石井翁もさすがというほかない。

 以上のことから、「ひもろぎ」に対して我々同人が切磋琢磨、百錬自得する道場であってこそ敬天舎の存在意義があることをまず確認しておきたい。

人はあるいは敬天舎は私学校の残党の集団であるという。
だが維新未だ成らずとの想いは同人の心底に深く沈潜しているところである。勇輔先生は大西郷の目玉が大きいのは涙がたまっているからだといわれた。この涙こそが維新の源泉であった。
この涙の真意を解するからこそ昭和初期の血盟団、五・一五、ニ・ニ六といった動乱の中に身を挺した同人が生まれたのも必然であろう。

大東亜戦に殉じた同人諸氏への追憶は尽きないが昭和二十年八月十五日終戦に際しての同人の処し方をみても敬天舎の存在をぬきにしては語れない。

 我々同人は、この伝統を護持しその批判的発展を図っていかなければならない。そのためにも偏狭な教条主義は排除していきたい。また単なる心情的復古主義者の集団であってはならないと思う。

曽ての城山登山道路反対運動にしても、その中心に岡島(昆虫)日野(動物)渋谷(昆虫)内藤(植物)石井等々の七高・高農の自然科学者がいたことを見落してはならない。

この事実は、敬天舎同人が単なる復古主義の立場からではなく、南洲翁以下鮮血にまみれた史蹟は保存すべきだという信念に加えて、城山をめぐる自然科学上の学問的価値をも充分認識した、より総合的より高い見地から反対運動を展開したことを明示している。

これは、いわば河上肇先生のいわれる宗教的真理と科学的真理の弁証法的統一の立場ではないかと思う。

 
とまれ進歩を止めたものに矛盾は生じない。発展過程にあるものこそ内部に対立矛盾を生じる。この矛盾をどう止揚していくか、そこに人間形成の鍵があると思う。

焼酎を飲みヤマイモをほり、時に取っ組みあいのケンカもする、それもよいではないか。「ひもろぎ」に対しひたすら同人が互いの切磋琢磨を通して自己革命をめざす集団であるかぎり、敬天舎のよき伝統は継承され永遠に生き続けるにちがいないであろう。 


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