日本の滅亡はいかにして救われたか
鈴 木   一

冠省 全くお久し振りに親書拝受、往年の情景を思い出して居ります。同封のパンフレットは、父の三十三回忌の折、親戚知人にお配りしたものですが御参考御利用頂ければ幸甚甚に存じます。

日本も戦後の放逸の時代を過ぎ反省の時代に入りつつあるように存じます。

益々ご自愛の上、日本古来の真知を一層発揮致されますことをお祈り申し上げます。

 七月十四日        草々

北原 勝雄様                         鈴木 一


 まえがき 

「波涛」の編集子から「父の思い出」を書くよう最初に手紙でご依頼を受けたのであるが、私はこの題名の下では書くことをご辞退したのである。 理由は鈴木貫太郎について、父としての思い出というものを、果たして読者諸君は期待しておられるであろうか。 私は父と子の思い出というものを、鈴木貫太郎の日本歴史における位置付けをよく承知しておられる方々にこそ、語りたいと思うのであるが、「波涛」という海上自衛隊の若い集団の方々は、本当に終戦の意義を知っておられるのか、私は大いに疑問に思うのであえてご辞退を申出たのである。

 あの敗戦時の広島の原爆の実況もさることながら、東京全都の焼野原もご存じない方々に、戦争の惨禍をどんなに説いても身をもって体験しないかぎりそれは無理であろう。

日本が威亡するか生き残るかという切迫感を、今これらの方々に再現することはとても不可能と思われる。事実昭和二〇年八月は、かってローマ帝国に亡ばされたカルタゴのごとく、一億玉砕を本当に覚悟せしめられていたのである。 この時点における内閣総理大臣の心境を語ることは、今思い出しても肌に粟を生ずる思いがする。この父を語る前に、父の一生を最も短い言葉で綴った一文をご紹介しよう。

○ 父貫太郎の一生

 二千余年の日本歴史に、いまだかって経験したことのない日本本土の焦土化しつつある最中に、いわば日本民族が威亡するか、残るかという、その死活の運命を託されて内閣総理大臣の大命を拝した父は、日本歴史上まれにみる悲劇の人物であったと言わねばならない。

 父の生まれた慶応3年といえば、明治元年の前年である。明治維新の動乱と同時に生を享けた父は、日本歴史の最も波瀾の多い一世紀を象徴している人物といっても過言ではあるまい。元来父は、海軍軍人として終わるべきはずであった。

日清、日露の両戦投には、あるいは水雷艇の艇長として威海衛の敵港深く突入し、あるいは駆逐隊司令として日本海々戦に敵艦二隻を撃沈し、水雷戦術の第一人者という折紙をつけられたが、不思議にも武運に恵まれて身に一弾も受けず、部下にも戦死者を出していない。

やがて海軍々人最高の栄誉たる軍令部長を歴任中、全く思いももよらぬ侍従長の任命を受け、今上陛下(昭和天皇)の側近に奉仕することとなった。青年将校を中心とする国家革新の機運の騒然たるさ中である。

 果たして、昭和一一年二月二六日、いわゆる二・二六事件に遭遇し、反乱軍伍長の撃った三弾は、眉間、心臓、睾丸と急所を突いたが、奇跡の連続で一命を取りとめ得たのは、正に終戦の大業に当たらしめんとの天のたくめる配慮としか思われない。

軍人は政治に関与すべからず、これが父の信条であった。父は文字どおり政治は大きらいであった。かって海軍最大の疑獄事件たるシーメンス事件を処理するため、最も政治色のない人物として海軍次官に抜擢されたときも、料亭や待合での話合いはいっさいやらないことを条件にもちだしたくらいであった。

 昭和二十年四月五日、重臣会議は一致して小磯第二次戦時内閣の後継内閣首班として父を推薦したが、枢密院議長として重臣の一人に参加していた父は、頑として応じないので、木戸内大臣は陛下にじきじきの説得をお願いし、父は陛下のご前において、自分は生来の武弁であって、政治は全くの素人であること、老齢で耳が聞こえず、重大なる過ちせ犯しては申訳ないことを申し上げて、ご辞退したのであるが、陛下の「耳が聞こえなくてもよいからやれよ」との再度のお言葉を拝し、全くいかんともすることができず、ついに大任をお受けしたのだ々とその夜待受けていたわれわれに語ってくれた。

 そのときの悲壮な面持ちは、今でもありありと眼底にあって忘れることはできない。おそらく生死を越えた、ただ陛下の大御心を体し、いかにして日本民族を救うべきかの一念に凝思した高い高い心境であったと思われる。 

四ケ月の終戦内閣は、口には一億玉砕を唱えなければ、いつクーデターが起こらぬともかぎらない。父の真意はただ一人の閣僚にすら打明けることができないという苦しい月日がたっていった。

日ごろ自分は旗売りであると自認していたとおり、原子爆弾とソ連の参戦の報を手にするや、一気呵成にご聖断方式によって、さしもの終戦の大業は成就したのである。

 世になぜもっと早く終戦にできなかったかという人がある。多少の波瀾はあったが、大局的に見て一糸乱れぬ終戦にもちこみ得たのは、この時期を正に捕えたからにほかならない。早きに過ぐれば、必ずや陸軍によるクーデターとなり、遅きに過ぐれば、三八度線による南北二つの日本ができていたであろう。幸いにして陛下とともに日本民族は滅亡を免れたのである。

 しかし、八月一五日早朝、国を売った鈴木総理を殺せといって、兵隊の襲撃を受け、わずか一・二分の差で身をもって難を免れ、悲劇の主人公の大団円とはならなかつたのである。そして昭和二三年四月十七日、「水遠の平和」の一語を残して郷里関宿の自邸に眠るがごとき大往生を遂げた。

「大勇院殿尽忠孝徳日貫大居士」の成名は、かって座右の銘とした奉公十則の内に「傲慢なるべからず」の一条があるが、あえて自らこの戒名を書き遺していった。父の自信のほども偲ばれる次第である。享年八二歳。菩提寺千葉県関宿の実相寺に葬る。

日本の滅亡はいかにして救われたか 人の運命ほど図り知れぬものはない。二・二六時件によって眉間と心臓と睾丸という急所に三弾を受けて、奇跡的に助かったものが、日本歴史始まって以来の国難に、最後の首相の大命を拝して、そして陛下のご聖断をお願いするという前代未聞の方法によって、一億玉砕から日本を救うことができたのである。大命降下した昭和二〇年四月五日の夜半、「自分は、軍人は政治に関与すからずとの明治陛下のご意図を体して、武人としてやってきたものであって、全く政治というものを知らない。

 そのうえに老齢で耳が遠く、陛下の大事なお言葉も聞き漏らすことがあるやも知れぬ々と申し上げて、二度まで大命を拝辞したのであるが、陛下は「政治を知らなくともよい、耳が聞こえなくともよいからやれよ」との再度のお言葉に、とうとうこのようなことになったのだと語る困り果てた父を前にして、私は一晩眠らずに考えざるを得なかった。思うに父はこのとき程死ぬことは易く、生きることの難かしさを痛感したことはあるまい。

 父はかねてより、満洲事変以来出先の軍部が統帥に従わず、勝手に戦線を拡大して行くことが最大の癌だと申していたので、大命を拝した以上統帥権の確立について何らかの手を打つに違いない。さすれば、青年将校による暗殺は必至である。しかし、親子の関係を度外視して今はこの日本最後の人物の生命を守らねばならぬ。しかし、これを他人に頼むことはできない。今は山林局長の職を辞して自ら首相の楯となって青年将校の銃口の前に立つべし、との結論に到達したのである。

 そこで総理大臣秘書宮となって首相の影のごとく、いかなるときでも直ちに父の前に飛び出せる態勢に専念したのであった。果たせるかな、八月十五日国を売ったバドリオを倒せとの青年将校の襲撃により、自宅は焼かれたが、一・二分の差で難を免がれた得たのは幸いであった。

 父は四月七日組閣を完了してその第一声を国民に送ったが、その中に「行け一億よ余の屍を越えて」という文句がある。七九歳の老宰相が陣頭に立って聖戦完遂を誓う激励の言葉としかとれない一語であるが、実はその中に、終戦の大業を果すためには売国奴の汚名も甘んじて受けねばならぬ。あるいは、一部国民に足で屍を踏みにじられるかも知れないという悲壮な決意が入っていたのであった。

 当時休戦とか講和とか和平とか終戦とか一語でも言おうものなら、クーデーターは必至であった。されば閣僚の誰一人に対しても、あくまで戦うの一点ばりで押し通したのは当然であった。七月二六日ポツダム宣言が発せられ、八月六日広島に原爆が投下され、八月九日ソ連参戦の報を耳にして「いよいよ来るものがきましたね」と一気に終戦工作に邁進したのである。

しかし一億玉砕、国体護持を主張する軍部をして全面降伏を呑ませることは至難中の至難である。閣僚は延々と続く一方、最高戦争指導会議も激論に明け暮れ、八月九日の深夜の異例の御前会議となるのである。

 従来御前会議といえば、事前に一切の手筈を整えて陛下の御臨席を仰ぎ原案たる文書を読み上げて、一・二の質疑応答のうえ満場一致の形をとって終わるという、いわば式典のようなものである。それが突如として事務当局のお膳立てを全く除外して、原案もないまま御前会議となったのである。

首相、外務大臣、陸・海軍両大臣、陸軍参謀総長、海軍々令部総長、そして枢密院議長を加えて七名が正メンバーとして陛下の御前に列席し、まず、東郷外務大臣からポツダム宣言を受諾することを可とする旨の意見の開陳があり、これに対して阿南陸軍大臣から、尚我に戦力ある以上あくまで戦わねばならない旨の主戦論が展開され、米内海軍大臣と平沼枢密院議長は東郷説、梅津陸軍、豊田海軍の両総長は共に阿南説、議論の尽くるところを知らぬ間に首相は立って御前に進み、陛下のご聖断をもってこの会議を決定したい旨を奏上したのである。

そこで陛下「自分は東郷外務大臣の説に賛成である。念のためにその理由を申し述べよう」と仰せられて諄々としてお言葉があったのである。そのお言葉こそ、そのまま終戦の詔勅(玉音放送)となって、一般国民にお示しになられたのであって、まことに拝読するものをして言々可々その肺腑を抉られるものがある。

十余時間に及ぶ続行中の閣議はここにご聖断をもって閣議決定をしたい旨の首相の発言によって一決し、直ちにポツダム宣言受諾の電報を発することとなった。外務省の原案は「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含しおらざることの了解の下に“受諾するというのであったのを、平沼議長の強い意見によって”天皇の国家統治の大権云々々“と改めたために、今度は米英側で大論争となり、遂に回答が十三日までかかろに至ったうえに「天皇及び政府は連合軍最高司令官の制限の下に置かれる」という条件が付いたので、ここで国体護持派すなわち主戦論者の陸軍側に反対が起こり、閣議も最高戦争指導会議も遂に結論を得ざるに至ったのである。

十四日午前陛下からのお召しにより、閣僚全員と最高戦争指導会議関係者一同は再び宮中地下防空壕に参集し、再度のご聖断が下ったのである。

 このとき陛下は、第一回の御前会議のときと同じようなお言葉があり特にマイクの前に立とうとまで言われたのである.国の運命をかけたこの一瞬、参列者は声を上げて泣き伏したと言われる。

 かくして日本の国は滅亡を免れ、二五年にして自由世界第二の大国となったのであるが、この聖断方式を考えだしたものは誰か。これこそ八年間持従長として側近に奉仕し、陛下のお気持を最もよく知り尽くしていた父首相の、最後の切札であったのである。

 ここで父の述懐談をご披露しておきたい。世に陛下のご聖断によって日本の国は救われたというが、それならば開戦のときはいかに。日本を戦争に投入せしめたご責任は陛下にあるのではないかというが、法理上の責任は陛下にはないのである。

 旧憲法では、「天皇は神聖にして犯すべからず」とあって、いわゆる天皇無責任論を規定してあった。すなわち一切は憲法の諸機関の決定したものを、陛下はただ裁下されるだけであって、これに対する拒否権はないことになっている。故に陛下はどんなにご不満であっても、手続きに過ちがなければ裁可されねばならないのである。もし、気に向かないからといって裁可しないでよいということになると、これは専制君主制となって、もはや立憲君主制ではないことになるのである。

 今まで陛下が自ら委任をとって国の運命を決定せられた場合が二度ある。

一度は、二・二六事件の際、時の岡田首相は暗殺されたと報ぜられ、内閣の機構が動かなくなった折「反乱軍を討伐せよ」とご命令によって、初めて陸軍首脳は決心が決まったのであった.そして二度が終戦のときのご聖断である。陛下の思召しを伺い、それをもって政府の決定とする方式がそれである。残念ながら開戦のときはこの方式がとられなかったのである。

 現に開戦を決する御前会議は、昭和十六年九月六日近衛首相のときに開かれている。

このときは前日の五日に近衛首相が参内して、明日の会議の議題についてご説明申し上げたのであるが、その国策決定事項には、

一、帝国は自存自衛を全うする為、対米(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ねl O月下旬を目途とし戦争準備を完整す。

二、帝国は右に並行して米英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む。対米(英)交渉に於いて帝国の達成すべき最小限度の要求事項並びに之に関し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し。

三、前号外交々渉に依り一〇月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直らに対米「英蘭)開戦を決意す。

 というものであったが、これをご覧になった陛下は非常に驚かれ、これでは戦争が主で外交が従ではないか。あくまで外交々渉を主にすべきであると強くお諭しがあったので、近衛首相は直ちに陸・海軍総長を御前に出るように取計らい、両総長も陛下の仰せられるとおりである旨をお答えし、翌六日の御前会議が開かれたのである

 原案の朗読の後、原枢密院議長から陛下のお気持を体して、外交が主でそのやむを得ざる場合に開戦を決意する旨の意味と解するがいかにとの質問があって、及川海軍大臣は然る旨をお答えしたのであるが、前日のこともあり、両総長から何らの弁明なきを非常にご不満に感ぜられ、自ら明治陛下の御製「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」をお示しになり、あくまで外交々渉によるべき旨を諭されたのであるが、遂に原議長の文意解釈にとどまり字句の修正のなかったために、この原案はそのまま決定裁可され、軍部末端に伝達。十二月八日真珠湾攻撃は実にこのときに決まったのである。

 死を賭してご聖断を仰ぎ、国の運命を決する途あるを初めて終戦後知った近衛首相は、若しあのとき終戦と同じ方式をとっていたらと責任を痛感され、国際裁判の呼び出しを前にあえて毒を仰がれたのであろうと父は語ったのである。